ひとりだけど、ひとりじゃなかった。
人のあたたかさを再確認できる、そんな小説をご紹介します。
主人公の柏木聖輔は、決して恵まれた境遇ではないのに、誰のことも恨まないし、真面目で、フラットで、誠実な青年。
この作品は、最後の一行に、すべてが詰まっています。
「この一言のために、私はこの本をたどってきたんだ」と心から感動しますよ。
「ひと」小野寺史宜|あらすじ
「ひと」は、タイトル通り、主人公を取り巻く人々を描いたヒューマンドキュメンタリー小説。
聖輔は、調理師だった父親を交通事故で亡くしています。
母親は、地元の鳥取で、給食センターで働きながら、女手一つで聖輔を東京の大学に進学させてくれました。
しかし、二十歳の秋、その母親も急死…。
奨学金を借りたとしても、返済する自信がなかったので、大学を中退。
あてもなく、お金もなく、仕事を探さなくちゃ…と思いながらも動き出せない日々。
そんなとき、商店街にあるお惣菜屋さん「おかずの田野倉」で、コロッケをまけてもらったことが縁で、アルバイトを始めます。
店主の田野倉夫妻、同僚たち、大学時代のバンド仲間、高校の同級生…多くの人との関わりが、聖輔の人生を動かしていくのです。
「ひと」のキーパーソン|高校の同級生、井崎青葉
「おかずの田野倉」で働いているときに、たまたまお客さんとして青葉がやってきて、再会します。
ふたりは、特に仲が良かったわけではないけれど、同じ鳥取出身で、東京で会えたという偶然も重なって、ときどき会う間柄に。
青葉は、親の離婚・再婚で、聖輔が知っている苗字ではなくなっていました。
青葉とは、考え方が似ていて、金銭感覚が近くて…ふたりの他愛もないやり取りを見ていると、ふふっと笑ってしまうようなかわいらしさがあります。
青葉と話していて、ぽろりと漏れてしまう本音が、生身の聖輔なんだなと感じます。
大きな事件がないのに、しみじみ味わい深い小説
全編通じて、まるで季節が勝手に移り変わるように、淡々と落ち着いたトーンで進みます。
親が亡くなって、悲しくても、日々は続く…。
声を上げて泣いても、ドラマのようにシーンが切り替わったりはしないし、いつかは自分で泣き止んで、次の行動を起こさないといけない。
そんな現実が生々しいんです。
聖輔は、父を突然亡くしているので、父から仕事の話を詳しく聞いたことはありませんでした。
そこで、父が働いていた料理屋を回って、父を知る人に会いに行きます。
「父の人生を辿ろう」と意気込むわけではなく、「見ておきたいな」「ちょっと話でも聞けたらいいな」といった、ほんのりした動機が、なんともリアリティがあるんです。
おぼろげな情報なので、ときには、けんもほろろに「知らない」と断られることだってあります。
でも、それもまた人生。自分の思うようにならないこともあります。
人はひとりでは生きていけない。心のつながりが人を生かす
家族がいなくなって、たったひとりになった聖輔。
ですが、「おかずの田野倉」や商店街の人たちのあたたかさに救われています。
聖輔自身が、歩いていたら何気なく道を空けてくれるような、そんな人柄だから、みんな応援したくなるんです。
おかずの田野倉の店主、督次さんのセリフが印象的。
「聖輔は人に頼ることを覚えろ」
一方で、母の親戚で、葬儀のときに手伝ってくれた基志おじさんは、お金を無心してきます。
血のつながりよりも、心のつながり。
だから、聖輔はひとりだけど、本当の孤独ではないのです。
最後の1行のために、「ひと」を読んでほしい
聖輔の人生のうち、1年間を切り取った本作。
最後の一言のために、彼の1年間はあったのだと思います。
両親を亡くしても、環境を受け入れ、自分を変えることで適応してきた聖輔が、自分のために発した一言だから。
聖輔は、これまで、いつも何かを手放してきました。
そもそも、おかずの田野倉で働き始めたのも、コロッケをおばあさんに譲ったのがきっかけ。
青葉に再会したときも、さりげなく道を空けてあげていました。
バンド時代に大切にしていたベースも、パートの一美さんの息子にあげてしまう。
親戚がお金を無心してきたら、お金を渡してしまう。
だけど、そんな聖輔が、これだけは譲れなかったもの。
読後感は最高で、余韻がしみじみ長く続きます。
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